好き嫌い

誰かを好きになる。

誰かを嫌いになる。

この食べ物は好きだけど、この料理は嫌い。

 

「○○君のこと好きになっちゃった!私どうすれば良いかな?」

「私××さん嫌いなんだよね」

よく聞く言葉。よく聞く表現。

 

羨ましい、と思う。心の底から。

何かを嫌いになるのは難しい。

何かを好きになるのと同じくらい。

とても多くの、大きすぎるほどのエネルギーが必要で。

そんな大変なことを、日常的に。

さも簡単そうに、当たり前に。

し続けることの出来る周囲が羨ましい。

私が演じ続けていることを。演じない素の自分で。

私には出来ないことを、当たり前にする彼らが羨ましい。

 

だからと言って現状を変えようとも、変えられるとも思わないけれど。

 

「恋愛すれば変わるんじゃないかな?」

私が好きにも嫌いにもなれないような、そんな取るに足らない私を、誰かに好かれようなんて思わないよ。

「好きだって言ってくれる人がいれば自分を好きになれるんだよ」

過去に私を好きだと言ってくれた人は、盗撮魔だったり、ストーカーだったり。単に身体目当てだったり。そんな人に好きだと言われて、自分を好きになれるものなの?

そんな人に好かれやすい私は、所詮その程度の価値の人間なのかもしれないが。

 

誰かが、私の人生をすべて決めてくれたら楽なのに。

誰と友達になって、誰を嫌いになって、誰を好きになって、誰と家庭を作っていくのか。

全部、決めてくれたら私も。

それを当たり前に生きる演技が出来るのに。

私は、誰?

「自分の思う通りに言う前に、一呼吸置いて、相手を喜ばせたり、傷つけなかったりする言い回しを考えなさい」

確かに良好な人間関係を築くには重要なことだ。

だが。

小学校に上がる前の子供に言い聞かせ、徹底させるべきことではないのではないか。

 

そう言われ続けてきた"子供"は、今。

誰とでも波風の立たない関係を維持できるようになった。

同時に、他者に対して好きも嫌いも抱けなくなった。

生き延びるにはとても便利で、でも自分の人格にはとても不利なこと。

 

両親は、中学生の私に対して言った。

「そんな大人ぶった言い方する子供なんてかわいくない」

貴方達が私をこうした原因なのに。

その日から私は、両親からの質問には何を言われても、解答がわかっていても、『わからない、どうして?』と返すようになった。

そう聞き返せば、あの人たちは喜ぶ。

 

この人はこう言えばきっと喜ぶな。

この人はこう言われたがっているな。

 

そんなことを常に考えて。

無意識の内に考えて。会話している。

 

「何が好きなの?」

この人は○○が好き、なら私は。◇◇は○○に似ている。

『◇◇が好き。』

「これ、あげるね」

それ、もう持ってるし、それに苦手なんだよなぁ…。

『ありがとう!持ってないから欲しかったんだよね、大事にする!!』

「自分の好きなテーマでプレゼンを作ってください」

せんせい、わたしはじぶんのすきなことがわからないので、あなたのすきなことについてなにかおしえてください。あぁ、貴方の専門は△△でしたね。

『△△の分野の、××について発表します』

 

もう、"自分"が何を考えているのかわからなくなって随分経つ。

私の人生は"相手に望まれる自分"に支配されてからの方が長い。

自分。

よく友人に相談を持ちかけられる。

恋愛、家族、授業、人間関係、様々な悩みに関する相談を。

まぁ、人生相談のようなものだ。

私が相談されるに相応しいかどうかはおいておくとしても、彼らは自らの悩みを話し、私が何か言えば満足する。

"何を言われるのか"が問題なのではなく、"自分の悩みを一緒になって考えてくれている"という事実が重要なのだろう。

 

では、私の悩みは。

様々な悩みを、人間関係を聞き、私が抱え込むモノは。

一体どこに捨てれば良いのだろう。

 

「今度は私があなたの悩みを聞くからね、いつでも言って」

あなたはいつ言っても予定があるからと話を聞いてくれない。

「なんか頼りになるよね。どんな事でも自力で解決できそうだもん」

私は完璧じゃない。あなたと同い年の、ただの人間。

「姐さんは若いけど達観してるよね。大人びてる」

姐さんって何。確かに色んな人の話聞いてるから、知識は人よりあるかもしれないけれど。

 

私は人と接するのが得意じゃない。

得意じゃないから、誰とでも波風立てないように関係できるようになった。

…なってしまった。

一人で抱え込むには重すぎて。

でも他人と関わることは怖すぎて。

私は、どうすればいいのだろう。

"普通である"こと

祖父母いわく、'長子である私は家を継ぐ'ことが"普通"であり、それを当たり前とすることもまた"普通である"のだそうだ。

…いつの時代の話だろう?驚くなかれ、世は平成、しかも平成すらも終わろうとしている、そんな現代である。

両親いわく、'一人っ子の私は彼らの老後の面倒を見る'ことが"普通である"そうだ。

私の将来の自由とはなんだろう?私は将来、少なくとも彼らが死ぬまでは移動1時間30分以内の場所にいるべきらしい。…山の中だ。実家の立地を考えてものを言って欲しい。

"普通である"ことは、確かに、ある程度確定した未来をある程度の時期までは与えてくれる。しかし、私はそれを必要とはしていない。

私は、それが私の望むものではなかったとしても"普通である"べきなのだろうか。

"普通"であること

このところ常々"普通"ってなんだろう、と思う。

仲の良い友人がいる。
バイト上がりの夜中に、部屋に遊びに行くほど。
相手とその父親と共に遅めの夕食を食べる。
好きな音楽について語ったり、
ギターや麻雀を教えてもらったり、
ときに下世話な話をしたりする。
その後カラオケに行ったりもする。
帰宅は日が昇る頃になることが多い。

その友人は男である。
本人曰く、バイらしい。

…と、"友達"にそんな話をすると「それって"普通"じゃないよね、大丈夫?」と言われる。
大丈夫?って、何について言われてるのだろう。
"友達"は何について心配してくれているのだろう?
…普通ってなんだろう。そう思うわけだ。